広島という街の特徴を探る中で、まずはその歴史的な特徴に目を向けてみましょう。
完全に独断と偏見で、ロジックなんて全く無いんですが、思うに広島という街にとって重要だった出来事して挙げられるのは次のようなものなんじゃないでしょうか?
①(モチロン)広島地域に人が住み初める
②平安時代末期、平清盛あたりによる瀬戸内海都市開拓
③16世紀末期、毛利輝元による「広島」開拓
④19世紀後半、軍都としての広島発展
⑤1945年、原爆投下
あたりですかね。
まず、①はいいでしょう。
実際には、現在の広島市の多くは海や川であり、人が住むに適した場所じゃなかったそうです。
比治山とか、ごく一部の場所でしか、縄文時代に人が住んでいた形跡の様なものは見つかっていません。
時代が下って弥生時代になっても、相変わらず農耕に適していない広島市には、それ程多くの人は住んでなかったんじゃないかと思います。
実際、安芸国の最初の国府(県庁の様なもの)は西条に置かれたそうです。
これは重要なことで、広島はこれ以降も、農産物により街が活性・発展することの無い、中四国地域では珍しい都市になって行きます。
そんな広島が徐々に街として機能し始めるのは、②あたり。
つまり、平安後期になって、瀬戸内海を行き来する船が飛躍的に増えた頃でしょう。
海岸線は今の宇品(広島港)よりは遥かに北側にあり、恐らく平和大通あたりだったんじゃないか、と言われていますが、何れにせよ、瀬戸内海から内側に窪んだ場所にある広島市は波が穏やかで、恐らく多くの船が停泊するようになったものと考えられます。
舟入なんて、海にちなんだ地名が多いのは七つの川⑦ 「消えた川」でも触れた通り。
こうした港としての広島の開発は、その後千年近く時代を経ての広島・呉の軍都としての発展に大きく繋がっていくものです。
現在の広島港はさほど貨物取扱量なんかの多い港ではありませんが、歴史的には陸・海の交通の要所として、特に平安から室町時代にかけては重要だったんじゃないでしょうか。
これはある意味で、仙台や新潟なんかと広島が異なる点ですよね。
港として栄えた時代が違う、というのかな。
仙台や新潟が江戸時代に栄えたのに対して、広島は平安時代から室町時代。
しかも広島の場合は、明などとの対中貿易においても要所に位置していた訳ですからね。
結果として、広島の風土は、類似の都市と比べて、武家・商家的な文化ではなく、宮家・公家的な文化で創られてきたと言えるかも知れません。
このあたりはむしろ、金沢なんかと境遇が似ている。
実利を取るよりも、プライドが高いという特徴が、もしかすると広い面積とそれによって増えた人口量にあわられている、とも言えるかも知れないですね。
要は、広島市ともあろうものが、静岡なんかに人口で負けられるかぃ!って訳です。
と、同時に、どこか公家的な人の好さもある、と言うのがフォローです。
尚、当然このことは、後の臨時首都化にも関わってきます。
この流れは平清盛が厳島神社を作ったことで一層加速します。
以後、呉から広島市、五日市、宮島あたりまでは、陸(山陽道)、海(瀬戸内海)共に、戦国時代辺りまで、京都と九州、そしてその先の大陸とを結ぶ、日本にとって最も重要な交通ルートであり続けました。
そんな瀬戸内海、そして厳島を利用して、広島の雄となった、最も有名な広島の歴史上の人物である毛利元就・輝元の話は、また次回。