広島の歌によく出てくるのが、「七つの川」という言葉です。
甲子園で広島からの出場校の校歌なんかを聞いていても、しばしば耳にすることがあるかと思います。
これは三角州にできた街(デルタシティー)である広島の特徴を現す言葉なんですが、実際に「七つの川」を全て答えられる人は中々いないでしょうし、ましてそれを地図に書き記すことができる人は広島におる人でも皆無でしょう。
まず、七つの川とは何か、と言いますと、西から順に、
太田川放水路・天満川・本川・元安川・京橋川・猿侯川、ということになるでしょうか。
あれ?六つしか無いぞ、と思う方もいらっしゃるでしょうが、実は太田川放水路は山手川という太田川の支流を戦後拡張し、半人工的に作られた川です。
その際、山手川の横を走っていた福島川という川を埋め立てて、更地にしました。それが現在の福島町あたりになるかな。
ですので、七つの川は今で言うなれば、
太田川放水路(山手川・福島川)・天満川・本川・元安川・京橋川・猿猴川
ということになります。
聞けば、あぁそうか、という感じの方もいらっしゃるでしょう。
比治山か己斐の山にでも登れば、その多くは一望することができます。
広島は、美しいデルタシティーです。
ここでは、西から順に、山手川・福島川は一つとして、代わりに上記以外の川を加えて、全七回で、広島の川特集をしたいと思います。
◎市街地を包み込む広島の柱~京橋川~
放水路と分かれた太田川(本川)が最初に分流する先が京橋川です。
京橋川は牛田南からひょいと東側に流れ出し、白島、幟町を包み込み、比治山下を抜けて、御幸橋を潜り抜けて出島脇から広島湾に流れ込みます。
広島駅、広島港(宇品)を結ぶライン、つまり広電の皆実線はほぼこの京橋川に沿う形で走っています。
広島の市街地はこの京橋川に包み込まれるように発展してきました。
西側のラインをどの川に求めるかは難しいところですが、東側のラインは間違いなく京橋川だった。
近年になってようやく京橋川を越えて、そして比治山を越えて、広島駅北側、そして段原など、黄金山辺りに向かって東側に広がっていったわけですが、未だに京橋川の西側と東側では景色が変わります。
流れ出した京橋川は、まずは両岸に古くからの住宅地を抱えます。
牛田、白島辺りは、最初の「郊外」だったと言えるかもしれません。
川の西岸には小さな路地が並び、多くの小さな一軒家が軒を並べます。
川の東側に行くと、神社や寺が立ち並ぶ間に、門構えのしっかりした大きな家が並んでたりする。
やがて京橋川は、順番に山陽本線、山陽新幹線、そして常盤橋を潜ります。
そうすると西岸には縮景園が、東側には広島駅前(南口)の風景が現れてくる。
西側はそのあと銀山町あたりまで、つまり広電の通る稲荷橋辺りまで、平和記念聖堂があったり、比較的高級なマンションが並んでいたり、といった風景。
一方、東側は京橋から稲荷町にかけて、神社、寺、駐車場、小型のオフィスビルなんかが並ぶ。
川の名前にもなっている京橋はその間にある橋です。
コンクリート製の年季の入ったこの橋は、道幅こそ狭いものの、駅前から市内に出る最も重要な庶民の足場でした。
最近では稲荷橋を通って電車もバスで移動する人が殆どでしょうが、駅前から歩いて八丁堀方面に出ようと思ったら、京橋が一番便利。
実は稲荷橋の南側にも歩行者専用の細い橋が架かっています。
こちらはどちらかと言うと、歓楽街、流川に向かう橋、という雰囲気。
東側にはマッチ箱のようなオフィスビルが、西側には流川外れの料亭なんかが点在しています。
当然、料亭に「食べに」行くような人はこの橋を歩いて渡る、なんてことはないでしょうから、流川に生業を求める人々の通勤道、ということになるのかもしれない。
西側渡ってすぐにある鰻屋は広島でも有名な鰻屋で、そのイメージも強いです。
もう少し歩いていくとのっぺりとした駅前通りの東広島橋があって、そこから平和大通りの鶴見橋までは、西側にはマンションが立ち並びます。
一方東側はラブホテルが並んだ後で、広電皆実線の音が聞こえてきて、比治山下に至ります。
そこからしばらくは西岸沿いにマンションや住宅が並び、東側には倉庫、自動車などの大型販売所、公園、オフィスビル、そんな風景が続く。
不思議なのは流川を除いては、市内中心部に近い西岸の方が住宅地なんですよね。
特に一軒屋や古いマンションは西岸沿いに多い。
東岸には広島駅と広島港をつなぐ比治山通り・宇品通りがあることが大きいのかも知れません。
この電車通りを越えれば西岸沿いも住宅地になってきますから。
そんな東側のハイライトは旧専売公社後跡でしょう。所謂日本たばこ産業、JTの敷地だったところです。
今はJTのビルの他、猫田記念体育館、そして地元スーパーを中心とした大型ショッピングモール、イズミゆめタウン広島になっています。
その辺りが丁度皆実町六丁目。つまり御幸橋です。
御幸橋はかつて明治天皇が来られたことでついた名前でその昔は海岸だった。
江戸時代辺りは遠浅の海岸の先ってことになりますかね。
ここから先は出島と呼ばれるわけですから。
明治天皇が来られたのは日露戦争との関係です。
この時、大本営が広島に置かれ、臨時国会が広島城で開かれています。
一時的に帝都になった広島で海軍をご覧になった場所が御幸橋あたりになります。
御幸橋を超えると西岸には有名私立高校である修道高校が、東岸には国立の広島大学付属高校という二大高校(中学)があります。
しばらく行くと元安川とつながり、最後に本川と合流する地点が、同時に広島湾、すなわち瀬戸内海の始まり、ということになります。
西岸はありませんが、東岸の風景は如何にも出島、という感じ。
出島・元宇品は、数年前まではボート屋、釣具屋、倉庫、空き地、そんな風景でしたが、新しく千田町と繋がる橋ができて、東岸は広島港に至るまでマンションやホームセンターが立ち並ぶようになりました。
京橋川を北から南にずっと眺めると、広島を支える柱なんだ、ということがよく分かります。
元安川や本川は確かに重要な川ですが、どちらかと言うと机や食器棚に近い。
それに対して京橋川は広島市街地という家を外から包み込む柱、という印象です。
この柱に対して比治山という庭だったり、流川という土間だったり、広島駅という玄関だったりがある。
白島・牛田はさしずめ二階。縮景園や幟町の風景は中庭、そして八丁堀は台所、御幸橋は応接間で、その先には広大付属、修道という兄弟の勉強部屋があって、皆実町は居間ですかね。
そんな広島の風景を支えているのは、紛れも無く京橋川という柱。
柱無くしては広島市市街地は安定せず、発展も無かったでしょう。
柱には広島の成長記録、京橋や比治山橋といった古く、美しい橋による成長の跡が刻まれています。
今広島は、出島という軒下の改修を終え、庭先の段原、玄関先の広島駅東側の改修工事に手を付け始めたところ。
改めて、京橋川という柱が、その重要性を増してくることでしょう。
広島駅南側で猿侯川と分流する京橋川
川の名前にもなっている京橋川の風景
鶴見橋から見る夕暮れの京橋川
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