さて、毛利元就・輝元親子の話でしたよね。
よく知られとるんですが、一応ザッと話すと、今の高田郡吉田あたりの一弱小豪族であった毛利家が、元就になって、厳島の戦いなど知略を尽くした戦いによって、やがて安芸(現在の広島西半分)を統一するに至ったわけです。
でもって、サンフレッチェの元にもなった「三本の矢」の教訓を受けた側の息子、輝元が吉田郡山城から、現在の広島城に本拠地を移して、いよいよ現在の広島が形作られていくことになる。
田舎侍が、計略を働かせて街に出るに至った、と言えばそれまでですが、ここに重要なポイントが2つあります。
一つは、契機となった戦いは、結局山の中ではなく、瀬戸内、しかも最も要所である厳島をベースに行われた点。
それともう一つは、この毛利時代から後に広島城無断改修の嫌疑で川中島に流される福島正則時代までが、広島の中でも数少ない「武家」の時代であったという点です。
一点目に関しては、その後、毛利家が吉田郡山を重宝せず、結果的に瀬戸内への比重を極端に強め、端的に言えば、広島に南北の格差が生まれます。
もともと、野武士・豪族中心世界だった北部と、商業都市であった南部、という区分があったのですが、これを機に、大胆な言い方をすれば、北部が武家にも切り捨てられるわけです。
そりゃ、誰だって瀬戸内・山陽道のある南部の方が潤うことなんて分かっとりますもんね。
この頃には治水能力も上がって、七つの川が流れるデルタ地帯でも十分に発展能力がありましたから。
ただ、この件は大きかった。別に輝元にそこまでの先見性があったかどうかは知りませんが、結果、安芸は広島になって、現在の広島市周辺、一極集中化がどんどん進んでいくわけです。
その後の繁栄も、絶望も、そして今の広島も、そこで起きる多くの出来事は、この移動によって、発生までのカウントダウンを開始されたと言える。
うーん、ちょっと大げさか。
一方、この移動を別の見方から見ると、二点目、つまり、お隣の山口大内家の影響もあって、貴族的な商業都市だった南部に、ついに武家の文化が入ってくるわけです。
それは次の福島家による支配まで続きます。
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不思議なことに、その後の浅野家ってのは、元々織田家の中下級武士だったんですが、その後紀伊藩を任されたことで、どうやら随分と性質が変わったみたいです。
後に縁戚である赤穂浅野家がひと悶着起こしたりなんかもあったけれども、基本的には商業・貴族的な風土の色濃い藩になりました。
このあたりは、浅野家の家風が広島の風土に合ったのか、広島の風土に浅野家が順応したのかは分からないですね。
いずれにせよ、浅野家における、目立たず、そこそこ豊かで、なんとなくおっとりと貴族的な広島の統治は明治維新まで続きます。
尚、江戸末期の広島は、南方の干潟、つまり平和大通から南の国泰寺、鷹の橋あたりをどんどん干拓していき、現在の広島市あたりでは合計人口が八万人ほどに達しました。
これは、一つの街としては江戸・大坂・京都・名古屋・金沢に次ぐ規模だったそうです。
広島市のホームページ(http://www.city.hiroshima.lg.jp)にも、「本川や元安川」沿いは他国船でにぎわいをみせ」と書いてあることからも、海洋を中心とした商業で大変栄えていた、当時の様子がうかがい知れますね。
舟入や江波あたりはまさに西日本一賑わったわけです。
こうした「豊かさ」「海洋藩であること」「明治初期の派閥争いに巻き込まれなかった」と言う点は、その後の原爆投下に至る広島の歴史で非常に重要なポイントになったと思います。
そんな訳で予定よりもちょっと長くなってしまった。
19世紀後半からの、軍都としての広島発展は次回かなぁ。
歴史にifはもちろんないですが、毛利家が吉田郡山に居続けたら。
もしかするとそれは広島の有史の中でも、最も重要なifなのかも知れません。
数少ない、本格的な武家支配の下でその決定がなされた、と言うのは皮肉と言えば皮肉ですねぇ。
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